2008年7月28日月曜日

1999年6月「ポレポレの会・記念文集のために」


 *この絵に関係なく、前回の続きを書きます。
変化を恐れて繰り返しの日常の中に埋没している私達の話。
毎日毎日、同じようなことに悩み、迷いの森に入ってしまう。
さんざん迷った挙句、出した結論がいつも同じでは、事態は何も変らない。
永遠の時の流れの中では、人生などほんの一瞬かも知れぬ。
ならば一期一会を、必死に生きなければ、損と言うもの。
あなたが選んでいる、未来の選択肢は一つしかないのか?
そうではあるまい。未来には無限の選択肢がある筈。
別に大したことをしなくても良い。
旅にでも出たつもりで、「恥は掻き捨て」の気持ちで、
変化を楽しんで色々やってみよう。

1998年12月号「旅への誘い」


 私達はみんな変化を恐れている。
長年繰り返してきたパターンから、絶対に離れまいとするのだ。
住みなれた家にいて、通いなれた場所に,いつも通りの道筋を往復する。
いつも同じような服を着て、読む本もレンタルビデオの傾向もいつも同じ。
好きな食べ物をくりかえし食べ、いつも同じおかずから箸をつける。
気心の知り合った友達とだけ付き合って、
知らない人に会ったり、初めての事をするのは苦手だ。
いつも同じ状況の中に安住していたい。
変化は避けたい。傷付くことになるかも知れぬ。
だから時には、憂鬱の中にさえ、いつまでも閉じこもるのだ。
不幸でも慣れてしまえば安心と思っている。
痛い思いをするより今のままが良い。
*そうだろうか!?

2008年7月26日土曜日

1996年4月号「夏目漱石」


 これもポレポレの会だより連載当時、絵のみの投稿だった作品だ。
文豪や学者等の似顔絵を描く場合、
背景は書斎にすれば、雰囲気が出るし、絵作りもわりと楽だ。
お父さん、お母さん、お祖父さん、お祖母さん、
会社の上司、学び舎の恩師等に、
切り絵の似顔絵を贈っては、如何でしょうか。
きっと、喜ばれますよ。

2008年7月25日金曜日

2003年「米寿記念」


 *これもポレポレの会だよりとは、関係ない作品。
お写真から描く注文で、
親御さんの米寿祝いに贈る切り絵を、作らせて頂いた。
公開する許可は得ててあります。
色は切り絵の後ろに、色紙をあてがってつけた。
色を3色に抑えたのが、自分では気に入っている。
こういう仕事を、もっとしたいな!(笑)

2008年7月22日火曜日

1996年6月号「戴帽式」


 ナイチンゲールが晩年残した言葉。
「この仕事に対する並外れた喝采が、
私たちの中に呼び起こした虚栄心と軽挙妄動とは、
この事業に害毒を流し込みました。
少数者による静かな着手、地味な労苦、
黙々とそして徐々に向上しようとする努力。
それこそが、一つの事業がしっかり根を下ろして、
成長してゆくための、地盤なのです」
なんて私心のない、謙虚で誠実なな言葉でしょうか。
似顔絵ボランティアも、こういう気持ちで出来たら素晴らしいですね。

2008年7月21日月曜日

1996年3月号「キャンプファイアーの少女」


*前回の絵が、今ひとつすっきりしない気がして、描き直したのがこれだ。
大きな眼を開けて可愛らしくしたのだ。
ポレポレの会だよりに載せて、12年たった今見直すと、
試作の少女の顔の方が、いかにも焚き火を楽しんでいるように、描けている気がするのだ。
こうして当時日の目を見なかった作品に、発表の機会が出来たのは、
ブログならこそで、すごく嬉しい。

2008年7月20日日曜日

1996年3月号「キャンプファイアーの少女」の試作


 切り絵に夜景はもっともふさわしい題材と言える。
画面が黒っぽいほど切り絵の雰囲気が出るし、
光のあたる部分と影の部分の対比が、くっきりしているので、
白黒がはっきりした画材の、切り絵にはちょうど良いのだ。
この作品は試作と言うことで、
次回、本作を載せるが、
今見直してみると、こっちの方が良いようなきになっている。
どうだろうか?

2008年7月19日土曜日

1997年11月号「海の子」


 湘南で生まれ育った。子供の頃は毎日海で遊んだ。
夏休みは、朝目覚めたときから、何をして遊ぼうかと期待にわくわくしていた。
ご飯を食べたらすぐに家を飛び出してた。
何にも決まらない内から飛び出した。
誰とも約束などしていないけど、その内に誰かと行き会って、
早速何をして遊ぶか相談だ。
江ノ島の洞窟探検にはよく行った。
恐いけどその分、はらはらドキドキして、すごく面白かった。
何人か集まったら出発だ。
まるで日本のトム・ソーヤの冒険だ。
毎日、朝から晩まで夢中で遊んだ。

2008年7月18日金曜日

1995年5月号「星の声を聴く賢治」


 *これは私がポレポレの会だよりに、
初めて投稿した切り絵の1枚だ(もう一枚載せてある)。
宮沢賢治を描いた。
これを見直して気が付いたことがある。右下にサインがあるが、
当時はひらがなの「お」と書いていたのだな。
その後、ひらがなは面倒くさいので、カタカナの「オ」に替えた。
「お」に比べて「オ」は切り絵にするのに、ぐっと楽だ。
サインに凝るより中身で勝負だ。

2008年7月14日月曜日

2002年5月号「マルク・シャガール」


 マルク・シャガールは1887年ロシアの町、ヴィテブスクのユダヤ人の家庭に生まれた。
父親は魚屋の雇い人であったが、母親は息子の将来に期待し、
立派な教育を受けさせ、事務員になることを望んでいた。
しかしシャガールは学校に通う内に画家になる夢を抱くようになるのだ。
結局、彼は父親との激しい口論の後、ほんの数ルーブルの金を持って、家を出てしまった。
ロシアの首都ペテルブルグで絵画の基礎を学んだが、物足りないものを感じていた。
23歳の時パリに渡り、新しい芸術の息吹を全身で吸収した。
彼の中のユダヤ的精神風土と、パリで見たキュビズムなどの影響が、
彼の内部で熟成され、まったく独自の個性として開花した。
97歳まで生きた。
*私は未だまだ、やりたい事の半分もやっていない気がする。
私は百まで生きて遣り残している事を、やりきってから、死にたい。
それまで若さと元気をたもつぞー!(笑)

2008年7月11日金曜日

1998年3月号「賢治の宇宙」


 おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい
 もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
 われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった 
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直感の一致に於いて論じたい 
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する 
この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか
 新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
 正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである 
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 
求道すでに道である 
宮沢賢治 「農民芸術概論綱要」より抜粋。

2008年7月8日火曜日

2008年8月号「清水の次郎長」


 本名、山本長五郎。
幕末から明治維新にかけて、東海一の大親分として、
浪曲、テレビ、映画などでもおなじみの清水の次郎長は、
その前半生だけ見るならば、喧嘩と博打に明け暮れた人生を送るだけの、
ただの一侠客に過ぎなかった。
しかし次郎長の人生が真に輝いてくるのは、晩年の山岡鉄舟との出会いの後からだ。
鉄舟と言えば、幕府の特使として、西郷隆盛と会見し、
江戸城を無血開城にみちびいた立役者である。
次郎長は鉄舟より17歳年上であるにも関わらず、初めて会った瞬間に
「この人は自分の師だ」と思ってしまう。
晩年は鉄舟の薦めにより、富士の裾野の開墾事業にたずさわり、
74歳で、大往生した。
人は出会いに人となる。
出会いを大切にしよう。

2008年7月6日日曜日

1996年11月号「成増アクトホール2」


 切り絵制作において、私が得意とするモチーフは人物画である。
必然的にそういう作品ばかり増えてしまう事になる。
さてこの作品は、私の所属する板橋きりえ会のサークル展に、
参加するに際して与えられたテーマ、
「板橋を切り絵で描く」に応えて制作したものである。
昨年描いたアクトホール(当会たより№60)に掲載)を、
別の角度から再び取り組んでみた。
面白いので、続けてみようかと思っている。
自分一人でやっていると、描く世界も狭くなりがちだが、
人との関わりの中では、苦手なテーマにも挑戦することになり、
作品の幅が広がるのだ。
大いに人と関わろう。

2008年7月5日土曜日

1997年8月号「走れ跳べ仔馬」


 澄み切った夜空にまんまる満月。
丘の畑のその上を、風に乗って空を飛んだら、どんなに気持ちが良いだろう。
都会から離れているから、空気がきれいで、
夜なのに月の光で、景色がくっきり見えるんだ。
仔馬のひずめは宙を蹴って、パカパカと心地よい音色を響かせる。
仔馬の背中に乗っているのは、もちろん君であり私なんだ。
あたりには誰もいないから、ちょっと歌でも唄おうか。
「ゴホン、ゴホン、本日は晴天なり。17番、唄います」
始めはためらいがちに、その内大胆に、
大声を張り上げて、思いっきり歌って笑った。
真夏の夜の、君と私の観た夢の話。

2008年7月3日木曜日

「川津祐介」


 俳優の川津祐介さんは、私の憧れの人です。
私のペンネームである伊原桜祐と言う名前は、もともとあまりに人生が辛いと感じていた頃、
姓名判断の本を読んで、名前でも変えたら運も変るんじゃないかと思い、
画数重視で無理やりに作りあげた訳で、
その際、大好きな川津祐介さんの名前の語感と祐の字をもらったのだ。
たまたま名前を変えてから、人生が上向きになってきたので、
今もこの名前を使っているわけだ。
1996年の4月に縁があり、その川津さんのビストロ・ララの巣で、
切り絵の個展をさせてもらう事になった。
この絵はその時にお礼の意味で差し上げたものである。
川津さんの「三回死んでわかったこと」と
「神様ありがとう。今日も元気!」は、必見の本です。
見つけたら是非とも読んでください。

2008年7月1日火曜日

1996年2月号「成増アクトホール」


 *この絵も、当時まだ文は書いていなかった。
だから今、ちょっと書こう。
当時私は板橋区の成増の近くに住んでいた。
で、板橋きりえの会と言うところに参加していた。
この会で年に一度、切り絵展が開催されて、私も出品した。
そのために描いたものだ。主催者の佐藤先生から、
板橋の風景を一点加えるように、と言われていたので、
普段は描かないモチーフに取り組んだ。
どうせ描くならただの風景ではつまらない。自分らしさを出したかった。
絵に物語性を含ませてみた。
この絵で左下の街路樹のあたりに、鞄を提げて、少し急ぎ足で向うに歩いてゆく、
男性が描いてあるのに注目して欲しい。
これがすなわちこの絵に物語性をもたらしているのだ。
おや?何だろう?この男は何を急いでいるのだろう?
などと観る人の想像力を刺激するのだ。
能書きはいいけれど(笑)。ちなみにこの男は私なのだ。